春先の布団の中の温もり

東京生まれ東京育ちの社会人のひとりごと。

空気が抜けてきてます

萎んできてます〜絶賛萎み中。

ちなみにこれは「しぼむ」と読むけど、実はいまの今まで知らなかった。「萎える」と同じ字なのか。

 

なんか不完全燃焼ってか、空気が抜けていってる感じ。ふかしてもふかしても、どこかに空いてる穴から漏れていってる感じ。

 

やる気はめっちゃあんのよね。やる時間もあるし、ただできない。

他責思考的に、チャンスがないから、与えられてないからって思うこともできるんだけど、それは思考の放棄で、考えることをやめたら進まないので。

 

なんでもバランスだな〜と思う日々。自責と他責もバランス、時間とやる気もバランス、仕事とプライベートもバランス。

バランスとかグラデーションて便利な言葉で、本当に重要なことを覆い隠しちゃうよね。

重要なのは、話し合うべきは、答えを出すべきは、どのバランスでやるかなのに。

 

こうやって抽象度をあげて考えてばっかりだから、じぇんじぇん答えがだしぇましぇん…。

穴を塞がないと。

 

穴を塞ぐっていうのは、療養とか治療に近いことかなと思うけど、別にそうじゃなくても、喝を入れる方法で縛り上げることもできる。

どっちでもいいからとにかく心と身体を癒すか、思いっきり尻叩くかで進まないといけない。

 

こういう〇〇しないといけない〜みたいな考え方もしたくないしなんのプラスでもないが、まずはやってみるのだ…。

空気が抜けて地面に落ちる前に。

結局いいってわかってるものに浸るのをやめたい

ここ最近ずっと新しい映画を観れなくて、もう観たことあっていいってわかってるものを延々リピートする現象に陥ってる。

 

こういう状態に誰か名前をつけてほしい。

comfortable zone?ぬるま湯?

気持ちいい状態から外に出られないんだよね。

 

要は、いいとわかってるものを繰り返し観ることで得られる効用と、新しい「いい」を発見しにいくことで得られる効用の大小が変化してるってことよね。

今は前者の方が大きいし、新しいものに興味持てるとき、新しい気づきを得たいとき、外に向かって一歩踏み出したいときは後者の方が大きい。

外だけじゃないかな、自分の内面に向かって進んでいきたいときもあるし。その手段として、知ってる「いい」を擦ることと、知らない「いい」を見つけにいくことがあるって感じか。

 

答えは外にあるとは限らないから、いいってわかってるものを擦ることでも前回とは違う気づきとか答えが見つかったりもするし。

自分の内面のスポットライトが当たってこなかった場所が急に見えたりもするよね。

 

もっと目が冴えてほしいね。目も耳ももっと開いてほしい。

もっと思考を回す必要があるし、もっとできると思うのに、社会に消費されてる日々で全然できてないと思うと悔しい。

いや、こういう他責の仕方はよくないわな。

 

何にせよ、熱い石の上を歩きたいし、冷たい水の中に入っていきたい。

こんなぬるま湯の中にいたらまじで溶けてしまうので。

Blood+という神アニメ

結構前のことだけど、今年の頭くらいにBlood+とかいう神アニメを久しぶりに観て、当たり前ながらかなりよかった。

実はこれが人生で多分一番最初に自我を持って観たアニメで、小1とかだったと思うけど割とはっきり覚えてる。

子どもの目にはトラウマ並みに怖かっただろうからな。

 

それを久しぶりに観て、花咲くいろはとか電脳コイルを観たときもそうだったけど、めちゃめちゃノスタルジー感じる!!(急にテンション上がる。)

音楽、なつかしい、キャラデザ、あーなつかしい、画面の暗さ?エフェクト?雰囲気っていうのかな、すげーなつかしいってかこの時代のアニメ〜って感じ。

 

子どものときに観てたアニメの曲って大体覚えてるし、なんなら歌詞なくても歌えるよね。この現象に誰か名前をつけてくれないか?

 

最近はNetflixとかでアニメ観てる人が多くて、OPEDは勝手に飛ばされたりするから、こういうノスタルジーの感じ方は減っていく、というか多分すでに今の子どもたちにはわからないものになってると思う。

そうすると、大人になってからあの頃を思い出して急にアニソン聴いたりとか、YouTubeの「アニソン2000年代〜」みたいなの聴いてうわー!ってなることもなくなるんだなあ。

 

完全に持論ではあるけど、それは一つ大切な文化を失っていくことにも感じる。

 

何も考えていない日々

何も考えてない。今年入ったくらいから何も考えずに起きて食べて仕事して寝てる。

死人。

 

死人の生活をしている。

これが生きていると言えるのか。

 

まあこんな卑下して悲観的になるのはやめるとして、まじでどうしたらいいんだ?

今までどういう時間に思考してたかっていうと、1人で自転車乗ってるとき、シャワー浴びてるとき、お風呂に浸かってるとき、あと電車に乗ってるときか。

 

自転車以外は頻度変わってないけどなあ。

シンプルに脳がそれ以外のことで埋め尽くされてる感覚があって、勉強したいとか、仕事のこと考えるとか、隙間がないんだろうなあ。

ということで久しぶりにここに戻ってきた。

 

毎年ここの目標は継続する、だけど大体年20本くらいしか書いてない。

もっといろんな考えてることを言語化していった方がいいな。メモ代わりでもいいから、残した方がいい。

学生時代のメモをたまに見返すけど、めちゃめちゃいいこと書いてるよ、頑張ってたよあんた。

 

メモ見返すと、あーなんか今も葛藤の日々だなって思うよ、昔と基本変わらないよ。

そしてこういう葛藤やら憤りやら悩みやらは残しておいた方がいいよ。

こんな何も考えてない日々を送ってても、意味がないとは言わないけど、何も生み出してない。これは悲観してるわけじゃないけど、こういうないないも言うのをやめていく。

 

あと、仕事以外のことを語る笑

幸いにも仕事が楽しくて、会社の人が好きだし尊敬できるのもあって、仕事のことで頭いっぱいなんだ。

という感じで2024年ものんびーり、でも思考はしまくる!という勢いでやっていく。

 

Monsterを観終わった

観終わった!やばかったぞ、長いな〜と思ってたけどなんだかんだかなり面白かった。

 

やっぱりこの時代のアニメ、2000年代らへんってまじで暗くて陰鬱な雰囲気が最高だよな〜。

HUNTER×HUNTERとかハガレンの旧アニも、その時代感あってめちゃくちゃいい。

 

Monsterは、観てた時は後半間延びしてる感があって長く感じたんだけど、細かい伏線とか多くて、ジグソーパズルのピースを1つ1つ小出しにされてるような焦らし感があった。これが好きな人もいるのかも。

というかこの辺のアニメって今だと冗長に感じるくらい丁寧にストーリーを作ってて、一人一人の心情描写とか伏線とかも細かく描いてるから、どうしてもこうなるんだろうな。

 

Monsterは伏線とか気になること多かった割に自分では回収理解しきれず、ちょっともやもやも残っててもう一回観たいかも。

浦沢直樹がめちゃめちゃすごいということがわかる漫画。結局ヨハンの時間はアイデンティティが崩壊した子どもの時で止まってて、子どものままだったんだなと思う。

 

自分でいろいろ考える間もなく考察とか読んじゃったから、理解しきれないまま情報だけ過多に入ってきて消化不良ではありつつ、観てよかったアニメでした。

観てよくなかったアニメって今までになかったけどな。

 

そういえばこの前会社の若手交流会みたいな席で、アニメ好きという中国人の女性社員の方に対して「2000年代らへんのアニメって暗いどろどろじめじめした雰囲気があって好きなんですよ〜」って話してたら、「もしかしてHUNTER×HUNTERですか?」って言われて泣いた。

そうです、まさにHUNTER×HUNTERのこと考えながら喋ってます、一番好きです、って。

 

この情報だけでわかるのすごすぎて、わかってもらえることが嬉しくて、他人を理解するなんてできないって、分かりあうことなんて無理って思いつつ、あーやっぱりわかってもらえるっていうことはこんなに嬉しいことなんだなあと思い出した。そんな経験でした。

Monsterを観てたらBlood+を観たくなったので、次はこれを観る。

多様性という言葉を使うのはもうやめよう

多様性っていう言葉が近年流行り始めました。確かなんかの論文で、この言葉が文献とかに登場するようになったのは1990年代って読んだ気がする。

 

生き方とか愛し方のバリエーションが認められて、人それぞれみんな違ってみんないいよね、ということになり始め、そんな考えを許容する言葉としての“多様性”。

共通言語としては便利だなと思う反面、自分と対話、つまり思考する際には使いたくない、使わないほうがいい言葉だなと最近思う。

 

多様性と考えるときに、もちろん人それぞれ思い浮かべているものが違くて、自分がLGBTQ+のことを考えているときに一緒に話している相手は人種のことを考えているかもしれなくて。

そういう違いを包括して、多様なものを包括した上で議論を進められる共通言語としての役割はかなり便利なものだと思う。

話したいこととしては大体「異なるバックグラウンドの多様な種類の人間を、お互いに認めて尊重していこう!」というようなことだったりするだろうから、同じコンセプトの話をするのには本当に便利な言葉だな〜と。

 

一方で、思考するときにこういう包括的で曖昧な言葉を使うと、無意識のうちに自分にとっての多様性が規定されてしまって危険だなとも思う。

例えば、自分が多様性について考えるときに思い浮かべていることに、含まれるものと含まれないものがある。

そうすると、含まれないものは、そのとき忘れているだけだったりただ思い浮かべていないだけだったとしても、次第に自分にとっての“多様性”からは除外されてしまう。

 

無意識のうちに“多様性”と言いながらも排他的になってしまう。

「私は多様性が大事だと思います!」と言っている中で、そこに含まれないものに対しては無知なまま、無意識に人を傷つけたりするかもしれない。

それってかなり怖い。

 

そういうことをうだうだと考えた結果、思考の際には多様性という言葉を使うのはやめ、LGBTQ+とか人種とか性別とか文化とか国籍とかいろいろ、具体的な言葉を使って名指ししていくことにした。

それでも無知が故に含まれないものはあるんだろうけど、包括的な言葉を使って、総称を無知の隠れ蓑にしているよりはいいかな。

 

今朝は頭が働いている。

イベントは〇〇しなきゃな…というものになってくる

イベントごとって大体、楽しみなことのはずなのに途中からやらなきゃ意識になっちゃうよな〜。

直近で言えばクリスマスとか。クリスマスプレゼント買わなきゃ、カード書かなきゃ、お菓子買った方がいいかな?あれもこれもやらなきゃ、って。

 

それって本当もったいなくて、本来楽しくて嬉しくて、自分の感情でやっていたものが、なぜか義務感とか責任感とか、外的要因に取って代わっちゃう。

え、これってこれからもずっと続くのか?

 

来年になったら、お正月だ、お年玉あげなきゃ、友達や親戚に挨拶して回らなきゃ、今年もよろしくしなきゃって?

バレンタインチョコ作らなきゃ?

年度終わり、年度始まりでお祝い事なり何なりしなきゃ?

そんなことしてたらしんじゃうって。

 

あれもこれもやらなきゃ脳でやってたらまじで来年の夏には溶けてなくなってしまうので、うれしい!たのしい!大好き!だからやりたい!の気持ちを取り戻していかないといけない。

そのためには、本来こういうことできるの自体感謝なんだよな〜って気持ちを思い出さないといけない。

あと、そもそもこれって楽しいことだったよな〜とか?

 

むずかし。

これって日本だからっていうのもあると思っていて、あまり主語を大きくして話したくないけど、周りと合わせて同じようにする日本人気質だからこその、イベント参加への義務感だと思うんだよね。

それはもう話してもしょうがないことかもしれないけど、イベント楽しめてないなって今思うなら、これから楽しんでいこうよ…。

 

こっちのテンションが低すぎか。

楽しんでいこうゼ!!!!