春先の布団の中の温もり

東京生まれ東京育ちの社会人のひとりごと。

多様性という言葉を使うのはもうやめよう

多様性っていう言葉が近年流行り始めました。確かなんかの論文で、この言葉が文献とかに登場するようになったのは1990年代って読んだ気がする。

 

生き方とか愛し方のバリエーションが認められて、人それぞれみんな違ってみんないいよね、ということになり始め、そんな考えを許容する言葉としての“多様性”。

共通言語としては便利だなと思う反面、自分と対話、つまり思考する際には使いたくない、使わないほうがいい言葉だなと最近思う。

 

多様性と考えるときに、もちろん人それぞれ思い浮かべているものが違くて、自分がLGBTQ+のことを考えているときに一緒に話している相手は人種のことを考えているかもしれなくて。

そういう違いを包括して、多様なものを包括した上で議論を進められる共通言語としての役割はかなり便利なものだと思う。

話したいこととしては大体「異なるバックグラウンドの多様な種類の人間を、お互いに認めて尊重していこう!」というようなことだったりするだろうから、同じコンセプトの話をするのには本当に便利な言葉だな〜と。

 

一方で、思考するときにこういう包括的で曖昧な言葉を使うと、無意識のうちに自分にとっての多様性が規定されてしまって危険だなとも思う。

例えば、自分が多様性について考えるときに思い浮かべていることに、含まれるものと含まれないものがある。

そうすると、含まれないものは、そのとき忘れているだけだったりただ思い浮かべていないだけだったとしても、次第に自分にとっての“多様性”からは除外されてしまう。

 

無意識のうちに“多様性”と言いながらも排他的になってしまう。

「私は多様性が大事だと思います!」と言っている中で、そこに含まれないものに対しては無知なまま、無意識に人を傷つけたりするかもしれない。

それってかなり怖い。

 

そういうことをうだうだと考えた結果、思考の際には多様性という言葉を使うのはやめ、LGBTQ+とか人種とか性別とか文化とか国籍とかいろいろ、具体的な言葉を使って名指ししていくことにした。

それでも無知が故に含まれないものはあるんだろうけど、包括的な言葉を使って、総称を無知の隠れ蓑にしているよりはいいかな。

 

今朝は頭が働いている。